昭和53年08月17日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることできる。みてる(尽きる)ということがない。」
信心をすれば誰でもお徳が受けられると、ところが確かに受けておるでしょうけれども、受けてもかつがつ漏らしたり、または落したりしておったんでは何時までもそれが御神徳と言う事にならないどう言うところから御神徳がもるかというと、信心をして信心により有り難いと感じる、有り難いなと感ずる。もうすでにお徳を頂いたと思うんです。ところがその有り難いなと思う心がアッという間になくなる、どこからかもれておる、どこからか消えてしもうて居るわけなんです。
信心は心掛けでするもんだといわれとります。結局心掛けの良い人は段々お徳を受けておる、心掛けの悪い人は頂いても頂いても、おかげは頂いてもお徳にならない、結局心掛けが出来てないからだと思うんです。本当に合楽に御神縁を頂く人たちが、昨日の郷ノ浦の末永先生が頂かれた、あのお知らせのように沢山の目刺しを頂かれた。私は昨日、実はお祭りが終わるまで、今日はどげなお話をさせて頂くだろうかと、いつものことですけど思っておりました。
ある意味合いではやはり不安であり、ある意味合いでは楽しみなんです、何時も毎朝の御理解だって同じなんです。私自身が楽しみで今日の御理解はどんな御理解じゃろうかと思って楽しんでいるのです。昨日は特に御大祭後のお説教、それは皆さんが本当に御直会として頂いて帰って貰わにやならん。どう言うおかげを下さるだろうかと、あれはやはり御神徳です。神様がお参りした一人一人に御神徳を配って下さるのです。
私があれを話そうこれを話そう、これをやろうというのなら、それは御神徳にはならないんでしょうけれども、私自身が今日はどう言う話を下さるだろうかと、だから私の口から出るそのお話そのものが御神徳、だから有り難く頂いて帰れば船にも車にも積めんほどの神徳があるとおっしゃるでしょうがね。だからみな一様昨日は、七百何十名かの方逹が御参拝のおかげを頂いて、お届け数が昨日は、二千百なんぼかだった。
だからそれだけの方達がみんな御神徳をそれこそ船にも車にも詰めんほどの御神徳を受けて帰っておられるのだけれどもです、途中で落したり家に帰った途端に落したり、私がお話をしながら、皆、ほんとにこの暑いのに暑いという顔もせずもうそれこそ身じろぎもせずにそれこそ私をまばたきもせずに見つめて、お話を頂いとる人逹ばっかりのように思われた。あの真剣さで頂いとられるのですから、皆それぞれに御神徳を頂いとる。私も頂くなら皆さんも頂いておる。
ところがそれがいつの間にか、どこでか落してしまっておる。神様が昨日せめてお参りしておる700名の人たちだけは、もうそれこそ一蓮托生にお徳を下さろうとする神様の何か心意気と言った様なものを感ずる。また皆さんもそれを、仇おろそかにしてはならないと言った様な姿勢がね、皆さんの中にそれが感じられる。下さろうとするもの、受けようとするもの、本当にそこに一つの出会いがあり、そこに交流するものが確かにある。それこそ初めてお参りした人たちでも、やはり頂いておるということ。
いわゆる感じておると言う事。信心をすれば誰でも受けられるのが神徳。ところが受けることは受けるけれども、それを落してしもうたら、頂かんのと同じと言う事である。神様が一連託生に助かろう、一蓮托生に助けて下さろうとする働きがある。百人が助かれば百人助かったとしての神の助かりになるのです。だから神様も助かろうと一生懸命。それを伝えておる私もいうならば、今日はいっちょどげな御理解させて頂こうかと考えて話すのではなくてです、それこそ無技巧の技巧である。
いうならば捨て身ではなしておるのである。神様が私を通して皆さんに下さるのである。だから皆さんも頂こうと一心になっておる様子が、昨日のお話を聞いておられる姿勢、または、表情の中から私もそれを感ずる。ああ皆おかげを頂きなさったなと。神様も渡された喜びがあると思うんですけれども、それを頂いたものがアッという間に落されたり、どこでかそれが漏っておったと言う事。私は信心すれば誰でも受ける事が出来ると言うのはそう言う事じゃないかと思うです。けれどもそれを落としてしまう。
神様がもうそれこそ手に手を取り合って、一緒に助かろうとして居られる。一連托生である。知らぬ事とは言いながら不平を言うたり、不足を言うたり本当にお話を頂けば頂くほど、先生が言われる、あの生き方で行かねばいけんなぁと、思った時にはもうお徳を受けたんです。ところがいつの間にか、また脱落してしまって繰り返しておる。結局心行不足だからだと思うんです。こんなに容易いことがどうして出来ないだろうかと、なそうと思えば子供でもなせれる。
もう私が一番実感する事は、お風呂に入った時、お風呂場をのぞいた時です。これ程私が心行とはお風呂のマナーのごと私が言うでしょう。お風呂に入ったら頂き方がある。もうそれこそお水を押し頂いて頂かないけん。石鹸使うでもそれを押し頂いて頂く、それこそ毒が変じて薬になりますようにと言う様な祈りを持って、上がらせて頂く時でも後に入って来る人が、使い良いように気持ちが良い様に、有り難く思いなさる様にお風呂もキチッと流しておこう、タオルもキチッと石鹸もこんな風にして使う。
もうこんなに容易い事がでけん、成る程お徳が受けられんのは、ここにあると思うです。もうそこから漏っておるんですおかげは。だから本当言うとお風呂一つ入らせて頂くでも大変由々しきことなんです。それをもうじゅくじゅくするごたるタオルをポンとそこに置いたままにしてあったり、後の者が気持ちが悪いごたる感じのときがあるんです。お互いが本当に心行心行と言いながら一事が万事これでは、お徳を受けてもすぐアッという間に落してしまうな。
信心はやはり誰でも頂くことが出来る、お徳は誰でも受けることが出来るのだけれども頂いては落とし、頂いては落としする。結局これでは頂かんのと同じこと、ただおかげだけ頂いとると言う事になる。今日は善導寺の久保山のお母さんの一年の式年祭がここでございます、皆子供たちも集まっておる訳でしょうが、お母さんがいつも感心しておられた事は、久留米の喜代司さんのことでした、石井喜代司さん。
もうおかげ頂きなさる人は違いますばいというてから、今日はそのことをね、今日の霊祭のことをお願いさせて頂きよりましたらそのことを頂くのです。それで本当におかげ頂きなさる人は違いますばいと言いよんなさった、その喜代司さんの事を頂くことになるから、どう言うことであろうかと思いよったら今日の御理解二節でした。今迄でこんな御理解頂いたことはないですね、お参りをして来る、もう御神徳は誰でも頂くことが出来ると言う事はこう言う事ばい、今までは御神徳は。
誰でも受ける事が出来るというけれども、実際に頂いておるというものは千人、万人の中に一人もいないと言う位である。結局御神徳を頂く信心とは、こういう生き方と頂くのですけれど、今日はそうじゃなくて誰でも受けられると言う事、昨日の大祭にお参りした人がお説教頂いとる間に、だれでもが頂いておる。それは私の話であって私の話ではないのである。あれはもうそのままがお徳なんです。
サア今日は何を話そうかと、ほんとそこえ出掛けに先生が、御装束を付けたままです、退がってから御祭典中にめざしを沢山頂いた。ハア素晴らしい、今日の御理解はこれだなぁと思って、その事が一連托生に助かりたい、一連托生に皆が御神徳を頂きたい、それには信ずるものは肉眼をおいて心眼を開けよ、と言われる、心眼を開かねばいけない。そこには、有難い勿体無いものばかりである、毒な物を食べろと言う親はいない、そこが分かる、そこで有難くならせて頂くという、まあ御理解でしたよね。
朝の御祈念に皆さんこうやってお参りしておられる、せめて朝の御祈念にお参りして御理解を頂き一緒にこうして信心の稽古をさせて頂いておる者ぐらいは一つ、一連托生にお徳を頂きたいもんだと思う。今日私は、お夢の中にこの頃、UHOという、何ですか宇宙から飛んで来る空とぶ円盤というのは、こういうのじゃなかろうかというお話をしましたね。私が毎日毎日不思議な中にある、どんなに考えても不思議でたまらん。こうやってお話しとっても神様がささやきかけて下さる。
寝とっても神様が色々お指図下さったり、お知らせ下さる。どうして私ぐらいの者にこういうおかげが頂けるだろうか、どこから一体こういうのが発信されておるのであろうかと思うたら、やっぱり天地から金光大神のお取次ぎをもって、天地から私に発信がされておる。そう言うものが送られてきておるのを、私の心にピシャッとキャッチしておるのである。言うならば御神徳がそのまま私のところに流れてきとるのである、その流れてきとるのを皆さんにまた伝えるのである。
しかも分かりやすく頂きやすいように伝えるのですから、それが御神徳じゃないはずはない。それにふれたら御神徳にふれたのであり頂いたことになるのです。それがたまりにたまって神様の御信用となって、あの世この世をとうしてのおかげにまでもなってゆくのである。だから誰でも受けることが出来るというのは、今日はたとえば私の話にふれて下さったということは、皆さんが私の話を聞いて、あぁなる程そうだと思ったときには頂いたことになったわけです。
だから誰でも受けられるのです。だからそれを頂いて帰ってそれを育てていくところの信心が必要と言う事なんです。ところがです大体の所は頂いて帰ったけれども、肝心要のお風呂に入らせて頂いて、後から使う人のためにちゃんと綺麗にゆすいでおこう、固くしぼっておこう、そして後から使う人のためにキチッとそれこそ乾いたら糊でも付けたようにタオルが乾いておる様にしておこう。
石鹸もこうしてと。その事が出来ないなら、そこからもれておるということがいえるでしょうが。今日私は、久保山の霊祭にお願いさせて頂きよったら、本当に喜代司さんという人は感心な人である、おかげ頂く人は違うというて善導寺のお母さんが言うて居られたことを、私は今日頂いてある時に、喜代司さんの車に便乗させて頂いた。バスが無くなっとったからその車に乗せて貰った。
勿論善導寺の三叉路のところで降ろして貰うつもりで、どうぞ降ろしてくださいというたら、喜代司さんがどう言うたかというと「これから先は私の為に送らせて下さい」と言うた。あそこは四丁か五丁かありましょうかね、このバス通りです。たいがいの者が便乗させてもそこで降ろしますよ。まあ降ろさんにしても「まあ折角乗せたけんであそこまで送ってやらじゃこて」位のことではないでしょうか。
ところが喜代司さんはね、これから先は自分のもの、ここまでは誰でも出来ると言う事です。ちょっと乗せて下さいと言えば知らん者でも乗せて行ってくれるです。けどもあなたの所まで送ってやるというても、言うならば、仕方無しに送ってやるのです、乗せた手前に。けど喜代司さんは、これから先は私のために送らせて下さいとこう言う。違うでしょうが。同じ信心をさせて頂いとってもです。
同じことを覚えとってもです、これから先がお徳になるんだ、これから先は自分の物になるんだと言う様な頂き方がスキッと出来ると言う所に、言うならお徳を受ける受けないの差がでて来るのです。恐らくは沢山の修業生も居りますからお風呂に入ったらいちいち人のでもキチッと、時々はできておるから、しとるに違いないです。けれども誰かが、ろくそにしよる訳です。
そこにおかげを受ける人、受けえられない人の差がでて来るのです、たったそこからです、それこそ蟻の一穴から堤防が消えると言う様に、そこからいつの間にかチャーンと漏れてしまいよる。だから信心は成程心掛けでするもんだ。とりわけ御神徳を御神徳たらしめる為には、そう言ういうならば人が見ておろうが見ておるまいが、裏であろうが、表であろうがです、その神様だけがご承知の世界に生き抜くという生き方を身につけて行くと言う事が、私は誰でもお徳が受けられると言う事になるんだと思うんです。
御徳を受けるというのは、そこんとこが一様に朝の御祈念にお参りしよるし話も聞きよる、一様に頂いとるけど、ちょっとした心掛けで、ある人は育てていくことになる、ある人はそこから漏ってしまっておると言う事になる。あれだけ沢山の人が私の話を聞いてから、あぁ成程だと感じて下さる。もうすでにあなたは御徳を受けたと言う事になる。その御徳を受けたと言うその話そのものが、私の話ではないからである。だから私自身も頂いておる、皆も一様に頂いておる。
ところが私は、それを水も漏らさんと言う様な気持ちで受けとめて、いよいよ徳が徳に育って行くと致しましょうか。そうすると頂いとる人達の場合は有難かったと、感じた事は感じたけれど、どこかで漏れてしまう事になって、それが本当の御神徳にならないなりに終わって行く人が、それこそ本当に御神徳を受けたと言う人が千人万人の中に一人もいないほどしに、言うならば至難なものにされるのは、そんな容易い所から容易い事を疎かにして御徳を洩らしてしまっておると言う事をね、一つお互い心掛けさせて頂かねばならんと思うです。
どうぞ。